主催:公益財団法人 静嘉堂
後援:世田谷区教育委員会
3月3日は桃の節句。かわいらしい人形や小さな道具を飾り楽しむ「雛祭り」の風習は、江戸時代に広まり、現代まで連綿と続いています。
三菱第四代社長・岩﨑小彌太(1879~1945)が孝子夫人(1888~1975)のために誂えた雛人形は、京都の人形司・丸平大木人形店によるものです。内裏雛は、白くつややかで丸い顔が愛らしい幼児の姿をしています。岩﨑家の替紋である花菱文が各所にあしらわれた雛道具は精緻に作られ、段飾りに花を添えたことでしょう。これら贅を尽くした岩﨑家の雛人形・雛道具は当時の技術の粋を集めた、貴重な美術工芸品といえます。
このほか、本展では、春を愛でる絵画・工芸品も合わせて展示します。日本画家・前田青邨(1885~1977)に絵の手ほどきを受けた小彌太が描いた絵画や蒐集した名品、静嘉堂の庭園で花開く梅もお楽しみください。そして、春爛漫の本展は、丸の内・明治生命館への展示ギャラリー移転に向けた、現在の地で開催するセカンドラスト(最後から2番目)の展覧会です。
「節句」は「節供」とも書かれ、季節の節目となる「節日(せちにち)」やその日に供える「供御(くご)」(飲食物の意)を意味しました。後に人日(じんじつ)(1月7日)、上巳(じょうし)(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう)(9月9日)を「五節供(五節句)」と称し、江戸時代になると「五節供」は式日と定められました。
3月3日の上巳の節句には、男雛女雛のお内裏さまや三人官女などの人形を飾ります。これは、古来、神事に穢れを移した「形代」(かたしろ)や平安貴族の子供たちの「ひいな遊び」(ままごとのこと)を起源とします。江戸時代にはお雛さまを飾る風習が定着しますが、初期の雛人形は「立雛」のような質素な紙製で、段飾りもありませんでした。
引目鉤鼻の顔をした次郎左衛門頭(じろうざえもんがしら)の大きな立雛。岩﨑家に伝来した本作は、現存する江戸時代の「立雛」のなかでも最大級(像高65.0㎝)です。「座雛(すわりびな)」が定着する前は、本作のような立雛が一般的でした。
江戸時代中期、享保年間(1716〜36)を中心に町方で流行した面長な内裏雛。豪華な衣装を身にまとい、ボリュームのある身体をしています。このスタイルの内裏雛は享保年間以後も製作され続けました。
斎藤月岑(げっしん)らによって編纂された江戸および近郊の絵入り地誌。全七巻二十冊。挿図の「十軒店雛市」(じっけんだなひないち)は、現在の東京都中央区日本橋室町に所在した「十軒店」という雛人形などを販売する店が軒を並べた通りのことです。人形を買い求める人々の賑わいが見てとれます。
岩﨑家雛人形は、三菱第四代社長・岩﨑小彌太が孝子夫人のために京都の人形司・丸平大木人形店に依頼し、誂えたものです。「丸平」は谷崎潤一郎の小説『細雪』にもその名が登場する、歴史ある名店で、当主は代々「大木平藏」を襲名します。岩﨑家雛人形の内裏雛は、まん丸いお顔が愛らしい幼児の姿(稚児雛)で作られています。その頭(かしら)は名人・十二世面屋庄次郎(通称「面庄」)によるもので、岩﨑家雛人形は当時の技術の高さを示す貴重な美術工芸品といえます。
これらの雛人形は、雛祭りの折、東京・麻布の鳥居坂本邸に飾られ、邸宅を訪れた人々をさぞかし楽しませたことでしょう。小彌太が詠んだ俳句「老の眼を細めて見るや雛祭り」からは、雛祭りの様子を見る小彌太の姿が偲ばれます。
なお、岩﨑家雛人形は2018年、桐村喜世美氏により当館に寄贈されました。
白く丸い顔の幼児姿の内裏雛。鴛鴦文(えんおうもん)があしらわれた黄丹袍(おうにのほう)は皇太子の装束を想起させます。女雛の表着(うわぎ)は紅梅地に牡丹文を織り出したものです。宝冠には、岩﨑家の替紋である花菱文が表されています。
岩﨑家雛人形のうち、内裏雛に仕える三人官女です。向かって右から「長柄銚子(ながえのちょうし)」「嶋台(しまだい)」「加銚子(くわえちょうし)」(提子(ひさげ)とも称する)を持っています。「嶋台」の奥に坐るのは年長の女性です。
能(武家の正式な芸能)の地謡(じうたい)と囃子方(はやしかた)である笛・小鼓・大鼓(大革)・太鼓で構成された五人囃子。岩﨑家の替紋、花菱文を各所にあしらった装束を身に付けています。
岩﨑家雛人形に含まれる雛道具の一つ、五段の菱餅をのせる菱形の台です。花菱文は金蒔絵で表されています。菱餅の配色や重ね方は地方により異なるようです。
伏せた犬の形を模した紙製の置物(張子(はりこ))で、もとは祓や魔除けのまじないに用いられました。江戸時代、婚礼道具や雛道具の一つとして普及し、雛祭りにも飾られるようになりました。本作は、江戸時代の犬筥のなかでも最大級で、名家の家紋があしらわれています。桐村氏寄贈品。
桃の節句にふさわしく、「春」にまつわる花木や風景をモチーフにした作品も展示します。岩﨑小彌太ゆかりの優品を中心に、春を愛でるにふさわしい江戸美術、近代絵画などをご覧いただきます。
京焼の名工、野々村仁清(生没年不詳)の代表作の一つ。優美なシルエットの茶壺で、その器面に桜咲く吉野山の景色を、黒を背景に金銀彩も交えて描いています。仁清は、京都・仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開き、茶陶で人気を博しました。本作は小彌太の時代に蒐集されたと思われます。
尾形光琳(1658〜1716)は琳派を代表する人物で、作画のほか、陶器や漆工品のための下図・意匠などを手がけるなど、幅広く活躍しました。本作は、右隻に紅梅、左隻に白梅を描いた屏風絵です。文化12年(1815)に刊行された酒井抱一編『光琳百図』にも掲載されていますが、現代では光琳周辺の画家による作と推定されています。
尾形乾山(1663~1743)は尾形光琳の弟で、野々村仁清に陶法を学び、元禄12年(1699)、洛西鳴滝に窯を開きました。本作は半筒形の茶碗で、鉄分を含んだ素地に白化粧をかけ、呉須と銹釉で、蕨(わらび)や土筆(つくし)、すみれなどの春草の意匠を施しています。やや小ぶりな寸法を考えると、向付であったかもしれません。
三菱第四代社長・岩﨑小彌太は、後年、日本画の大家・前田青邨に絵を学びました。本作は、紅梅の老木を描いた作品です。右上に伸びる枝はかすみ、空間の広がりを感じさせます。苔むした幹の表現も見事です。師である青邨は小彌太の絵を「気品に優れていた」と評したとようです。
平福百穂(ひらふくひゃくすい/1877〜1933)は秋田に生まれ、後に上京、川端玉章(1842〜1913)や東京美術学校で画技を学び、大正時代には琳派に強い関心を示した画家です。本作にも琳派の影響が認められ、鴨を「たらし込み」で表現しています。20羽の鴨は春の日差しに暖まるようです。東京大正博覧会(大正3年開催)の出品作で、小彌太の時代に岩﨑家の所有となりました。長らく焼失したと考えられていた作品です。
春の花々が咲き誇る吉野山を意匠とした、二段の十種香箱です。蓋表や身の側面に施された吉野山の景色は金銀薄板を用いた多様な蒔絵の漆芸技法を駆使して、表現されています。箱のなかには聞香の道具一式が納められ、いずれも同じデザインで統一されています。
東洋陶磁の至宝であり、茶道具の逸品として知られる名碗。「天目」の語は喫茶専用の黒釉碗を指し、星の輝きを表す「曜変」の語とともに、日本で生まれた名称です。碗の内面に青く輝く光彩(虹彩)を伴う大小の斑紋が見えます。完品は日本に伝来した三碗のみ。淀藩主稲葉家に伝来したことから「稲葉天目」とも称します。小彌太の蒐集品。