前期(4/10~5/9)は、当館が所蔵する《曜変天目(ようへんてんもく)》、《禅機図断簡(ぜんきずだんかん) 智常禅師図(ちじょうぜんじず)》など国宝7点を一挙に公開します。これは平成10年(1998)の「静嘉堂・国宝展」以来23年ぶり、しかも展示室に一堂に会するのは初めてのことです。世田谷岡本での最初で最後の機会、お見逃しなく!
※後期は国宝3点に加え、重要文化財《聖徳太子絵伝》を修理後、初公開いたします。
岩﨑彌之助・岩﨑小彌太の父子によって設立された当館。集められた名品には様々な逸話が残されています。作品が伝えられた歴史、あるいは名品を手放す者、受け継ぐ者それぞれの思いなど、美術品の表面を見るだけでは分からない、ウラ側のお話を紹介します。
来たる2022年、創設130周年・美術館開館30周年を迎える静嘉堂は、美術館展示ギャラリーを丸の内の明治生命館1階に移転します。丸の内は、静嘉堂文庫創設者・彌之助が美術館建設を夢みた場所です。本展は移転前、世田谷岡本での最後の展覧会となります。
旅立ち―それは別れとともに新たな出会いを予感させます。日本の春は、卒業・入学、退職・就職と、多くの別れと出会いが繰り返されます。古来、日本・東洋においては、そうした節目に詩歌や書画を贈り、はなむけとしました。
禅の世界では弟子や友へ、悟りの道を示す言葉や仏法の真理を詩文の形で表した墨蹟などが書き与えられました。また漢詩の世界では送別がひとつの大きなテーマです。日本でも広く知られる中国・唐時代の詩人、王維や李白の送別詩に詠われる、青々とした柳や岸辺を離れていく船は別れの象徴となり、それらは絵画に描き込まれ送別の図として贈られました。
こうした旅立ちのイメージは物語の中にもさまざまに残されています。「昔男」を主人公とする『伊勢物語』には「東下り」の話が、『西行物語』では西行が「数寄の遁世」を求め武士の身分も家族も捨てて出家し、歌枕を訪ねて諸国をめぐります。また物語のイメージは、旅を現実だけでなく異界へも導きます。仏教や道教の説話では冥府や地獄をめぐったのち、よみがえるストーリーがしばしばみられます。芸術によって、人はイメージの世界を旅し、多くの文学・美術作品を通じて、異界の見ぬ世の友のもとへ旅してきたのです。
中国・元末明初の禅僧・楚石梵琦の題詩によれば、樹下に座す老師は唐代の高僧・帰宗智常(きすちじょう)、参ずる文官は張水部(ちょうすいぶ)という。迷いを抱える弟子に仏法の真理を示唆し、進むべき道を指し示す姿が描かれる。
道教の始祖に位置づけられる春秋戦国時代の思想家・老子の故事を描く。老子は、周の国の衰えを感じ、牛の背に乗り西方に旅立つ。国の境界、函谷関に至り、老子の教えを求める役人・尹喜(いんき)に「道徳経」を与え、いずこかへ去っていったという。落款の文から、本作は送別に際して贈られたはなむけであることが分かる。
桃山時代、博多の豪商・神谷宗湛(かみやそうたん)が所持し、秀吉に茶を献じる際に用いたとされる茶碗。表千家流の茶人・川上不白(かわかみふはく)が江戸下向の折、同門の茶友・鴻池善右衛門は餞別にと黄金を渡そうとする。不白がそれに深く感謝しつつも固辞すると、代わりに秘蔵の本碗を贈られたという。
暁斎渾身の全40図におよぶ画帖。彼のパトロンであった小間物問屋・勝田五兵衛の愛娘・田鶴(たつ)の冥福を祈り描かれたもの。田鶴は死後、諸仏に導かれて旅立ち、地獄見物などしながら、極楽に往生する。開業直前の鉄道が描かれることや内箱の絵を漆芸家・柴田是真が担当している点も注目される。
旅立った人びとはどこへ行くのか―不老不死の仙人になることを夢見た古代の中国人は、死後魂が旅立つ神仙の世界を、墓室の壁画や副葬品の中に造形化しました。そして西の砂漠のかなたにそびえるとされた仙山、あるいは東の海のかなたの仙島、山深い洞窟の向こうにある隠れ里に理想郷の姿を重ねて想いを馳せました。また理想郷の入り口は日常を過ごす市井にも隠れていることが物語に記されています。「邯鄲の枕」の故事に見るように枕は夢や願いをかなえるアイテムとして、壺や瓢箪は仙人が仙境や異世界へ行くための入り口として機能しています。また親しい友や愛する人たちとの酒宴によってもたらされる陶酔は、理想郷にも似た境地へ誘ってくれることでしょう。本章では、時代や人びと、それぞれのユートピアのかたちを探ります。
西の果ての仙山・崑崙山(こんろんさん)に住む西王母など、漢時代から流行した神仙思想の図像が鋳込まれた青銅鏡。古代の人びとが想像した神仙の世界は、耳のとがった「羽人(うじん)」と呼ばれる仙人や翼のある虎のような瑞獣が棲む場所だった。
右隻「桃李園図」は李白の詩「春夜宴桃李園序(しゅんやとうりえんにえんするのじょ)」に基づくもので、春の宵、月と花、酒と詩を楽しむ李白とその従兄弟たちを描く。左隻「独楽園図」は、北宋時代の政治家・司馬光(1019~86)の「独楽園記」より、都会の喧騒を離れた庭園でのどかな生活を楽しむ司馬光を描いたもの。
今日文化財と呼ばれる古く美しき品々は、ひとの手から手へと渡り、今に伝わっています。その意味では、美術品の長き伝来の道すじもまた「旅立ち」と「出会い」を繰り返す「旅路」です。静嘉堂に安住の地を得た美術品にも隠れた伝来の物語があります。
優れた道具・美術品には、古刹や名家、あるいは名だたる数寄者たちのもとを渡り歩いた足跡ともいうべき記録が、箱書(はこがき)や付属文書などとして残されています。書画は時代を経て改装されていき、茶道具ならば人の手を経るたびに品物をまもる収納箱が増えて、伝来の厚みも増していくものです。本章では、所蔵者たちと名品との出会いと別れにまつわるエピソードを紹介します。
「付藻茄子(つくもなす)」は室町幕府3代将軍・足利義満が選び出し、「松本茄子」は茶の湯名人・武野紹鷗(たけのじょうおう)が所持した中国製の名物茶入で、いずれも信長の手に渡った。二つの茶入は、本能寺の変ののち秀吉が入手し、大坂夏の陣でバラバラに壊れながらも塗師・藤重(ふじしげ)の漆継ぎの技により復活を遂げ、家康に献上された。
「最後の粋人」「粋の神」と呼ばれた大阪の両替商・平瀬露香(ひらせろこう)旧蔵の茶入。露香の収集品の箱に捺された「集散不期 願貽同好(集散は期せずとも 願わくば同好におくらん)」の印からは、コレクションへの愛情と人の生のはかなさがにじみ出ている。
徳川将軍家より3代将軍家光の乳母・春日局を経て、稲葉家に伝来した名碗。昭和9年(1934)に本碗を入手した岩﨑小彌太は、「天下の名器」として生涯茶事に用いることはなかったという。
明治25年(1892)、神田駿河台の自邸に静嘉堂文庫を創設した岩﨑彌之助は、恩師・重野成斎の歴史編纂事業を助けるため、書籍の蒐集をはじめ、重野を初代文庫長に迎えました。彌之助没後の明治44年(1911)、小彌太は父が晩年本邸として建設した高輪邸に隣接して、鉄筋コンクリート造の書庫をつくり、静嘉堂文庫を移設します。その後、関東大震災を経て、小彌太は図書や美術品など貴重な文化財の永存をはかるため、大正13年(1924)、父の霊廟のかたわらに洋館を建築し、高輪から静嘉堂文庫を移します。こうして歩んできた移転の歴史もまたひとつの旅といえるでしょう。
静嘉堂での美術品の一般公開は、昭和52年(1977)に展示館を開設したことにはじまり、平成4年(1992)には静嘉堂文庫創設100周年を記念して現在の美術館を建設、以来29年間、本展を含めて114回の展覧会を開催してきました。
『明治二十一年撮影 全東京展望写真帖』は建設途中のニコライ堂(東京復活大聖堂)から周囲を撮影したもの。本図には、手前に神田駿河台の岩﨑彌之助邸と三菱社の社屋が見える。静嘉堂文庫は明治25年(1892)、この敷地内に創設された。
深川邸内に建てられた洋館付設の八角堂には、英国上流階級の習慣に倣い、美術工芸品の陳列室が設けられ、彌之助が明治22年頃にF.ブリンクリーより購入した東洋陶磁コレクションが展示された。現代に通じる西洋式の美術鑑賞スタイルに則して作品を常設展示したこの陳列室は、日本における私設美術館の淵源ともいえる存在であり、コレクションは今も静嘉堂文庫美術館に受け継がれている。