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主要展示資料

①松浦武四郎肖像写真 明治15年(1882)撮影 9.1×6.0cm 松浦武四郎記念館蔵 (拡大パネル)

松浦武四郎の姿を知ることのできる現存唯一の肖像写真。満64歳の時、撮影されたもの。身長150cm弱という小柄な体で椅子に腰かけ、優しそうな表情を浮かべている。胸にかけている首飾りは多数の管玉や勾玉などを連ねて作られた大型の首飾りで、小柄な武四郎の膝の下まで垂れている。古物の大コレクターの姿を象徴する写真である。前年に蔵王堂金峯山寺本堂に大神鏡を奉納したのに続き、この年、武四郎は大宰府天満宮へ同じく大神鏡を奉納している。小柄ながら、多いときには1日60~70kmを歩くなど驚くべき健脚の持主であった。

Ⅰ. 幕末の北方(蝦夷地)を知る!

②『北蝦夷図説』 間宮林蔵述 村上貞助編 安政2年(1855)刊 4冊 26.0×18.2cm

間宮林蔵(1775-1844)は、カラフト(サハリン)が島であることを初めて確認したことにより、カラフト・大陸間の海峡に「間宮海峡」の名を冠せられたことで知られる北方探検家。伊能忠敬に測量術を学び、幕府の役人として長期にわたり蝦夷地の調査に従事した。本書は間宮林蔵が文化5年(1808)から2年間にわたってカラフトの北端近くまで探査した時の見聞をまとめたもので、地勢・産物・居家・器械・産業・交易・冠婚:葬祭・南方初島部・オロッコ夷・スメレンクル夷などの各部から成る。当時の現地の人々の生活風俗を記録した最初の文献として貴重なもの。

③『東韃紀行』 間宮林蔵述 村上貞助編 江戸時代末期(19世紀)写 3冊 26.3×18.1cm

文化7年(1810)春、間宮林蔵は単身、カラフト西海岸から対岸シベリアに渡り、黒竜江下流で清の交易状況を視察して帰国した。本書はその時の見聞をまとめたもの。この探査により、カラフトが島であることを実証した。舟の様子、清と多くの民族との交易の様子などが淡い彩色の挿絵であらわされ、当時の北東アジアの多民族交流の実態を垣間見ることができる。

④『北蝦夷余誌』 松浦武四郎撰 万延元年(1860)刊 1冊 26.0×18.0cm

安政2年(1855)に北蝦夷地と呼ばれていたカラフト(サハリン)南部を調査した時の記録を読み易くまとめたもの。第4回蝦夷地探査となったこの時は、函(箱)館から宗谷を経てカラフトまでを往復した。木版多色摺りの挿絵の中には、アイヌの男性の案内で歩く武四郎の姿が描かれており、その後ろにはウィルタやニヴフといった北方民族の姿も見られる。現地の人々の中に溶け込んで探査の旅を続ける武四郎の姿を彷彿とさせる挿絵である。

※蝦夷地探査の結果は、公式の報告書を作成すると共に、解りやすく多くの挿絵を入れた紀行文としてまとめ、「東西蝦夷山川地理取調紀行」(とうざいえぞさんせんちりとりしらべきこう)というシリーズ名で刊行しました(④~⑩)。当時人気のあった画家に依頼して挿絵を描いてもらうなど工夫をこらし、「多気志楼物(たけしろうもの)」として人気を博しました。こうした活動により、一般の人々が本格的に北方の事物に触れることができるようになったと言えるでしょう。生涯に100冊以上の本を出版しています。

⑤『天塩日誌』 松浦武四郎撰 文久2年(1862)刊 1冊 25.5×17.5cm

安政4年(1857)、第5回蝦夷地探査として函館を出発し、石狩、上川、天塩を巡って函館に帰着した。その時の記録をもとにまとめた紀行文。急峻な谷間にかかっている丸木橋を渡らざるを得なくなった武四郎が、アイヌの人々の助けを借りてこわごわ渡っている絵が見える。他の箇所に、土地のアイヌの言葉として、「昔し此所迄間宮某上られしと云伝ふ也」と記され、間宮林蔵の足跡を知ることができる。

⑥『久摺日誌』 松浦武四郎撰 文久元年(1861)刊 1冊 26.0×17.6cm

「久摺」は道東に位置する釧路を指す。安政5年(1858)、第6回蝦夷地探査の際、武四郎は釧路から山に入り、北の網走に出て、斜里、摩周、西別、弟子屈、阿寒湖を調査し、釧路に帰った。この時の記録は8冊にまとめて函館奉行に納めたが、本書はそれをまた1冊にまとめたもの。万延元年(1860)の自序の中で、「この地が肥えた良い土地であり、不毛の荒れ地のままにしておいてはならないということを伝えたかった」と述べている、掲載箇所は、土地の人々の生活に密着した植物を紹介している部分である。

⑦『十勝日誌』 松浦武四郎撰 文久元年(1861)刊 1冊 25.8×17・8cm ⑧『納沙布日誌』 松浦武四郎撰 文久3年(1863)刊 1冊 26.0×17.7cm ⑨『後方羊蹄日誌』 松浦武四郎撰 文久元年(1861)刊 1冊 25.8×17.8cm ⑩『知床日誌』 松浦武四郎撰 文久3年(1863)刊 1冊 25.4×17.5cm ⑪『東西蝦夷山川地理取調図』 松浦武四郎撰 安政6年(1859)刊 28鋪 (全体)238.0×359.2cm 地図:「箱(函)館部分」 地図:「室蘭〜内浦湾部分」 地図:「根室〜国後部分」

安政6年(1859)、武四郎は6度に及ぶ蝦夷地探査の集大成として地図を出版した。木版多色摺りの地図は、緯度・経度を1度ずつに区切ったものを1枚とし、26枚を並べると北海道・国後島・択捉島の地図になっている。地図中には川が流れる様子や、ケバ(細い線)で山がある場所を表現しているほか、アイヌ語の地名が9,800も収録されている。伊能忠敬・間宮林蔵が測量した沿岸部のデータに、歩測とスケッチ、そしてアイヌの人々から得た情報を加え、内陸部を詳細に表している。

Ⅱ. 松浦武四郎コレクションの世界

⑫大首飾り 硬玉・碧玉・瑪瑙・水晶・滑石・ガラス製 縄文時代~近代 1連 最長 145.0cm

明治15年撮影の現存唯一の松浦武四郎肖像写真に写っている大首飾りの実物であり、武四郎を象徴する遺品となっている。管玉・勾玉・切子玉・丸玉・八角玉・垂飾りなどの多種類の玉に金環・銀環も加えて絹糸でつなぎ、その総数は243点にのぼる。この内、例えば、勾玉は、碧玉製勾玉6点、硬玉製勾玉8点、瑪瑙製勾玉18点、水晶製勾玉5点、ガラス製勾玉1点、滑石製勾玉23点の6種類が含まれ、いずれも古墳時代のものである。複雑な形に組み上げられているが、この形は対馬国住吉神社の神宝として史料に残るものに類似していることが指摘されている。

⑬翡翠の首飾り 硬玉・蛇紋岩・ガラス・金銅製 弥生時代~近世 1連 内径 15.5cm

美しい玉を連ねて作られた首飾り。内訳は金環1点、硬玉製勾玉(弥生時代)1点、硬玉製丁字頭勾玉(古墳時代)7点、蛇紋岩製丁字頭勾玉(近世)1点とガラス小玉(古墳時代)36点である。硬玉製勾玉と丁字頭勾玉は、深い緑色を呈する極めて品質の高い、いわゆる琅玕翡翠(ろうかんひすい)である。付随する領収書によると、4点の勾玉は明治9年(1876)9月16日、同日隠居した日向佐土原藩十一代藩主島津忠寛(1828-96)より60円で購入したものと、佐々井半十郎より35円で購入したものであることがわかる。

⑭装飾台付壺 土製 古墳時代(6世紀) 1口 最大高 26.0cm 底径13.0cm 口径9.0cm

3個の小さな壺と3羽の鳥を肩の部分に交互に貼り付けた壺の部分と、2段状の器台部から成る須恵器。器台部は上の部分に4個、下の部分に2個の長方形の穴があけられている。箱蓋裏書には、武四郎自筆で「天保八年酉六月南部春日山杉多く倒る此根より出る処のものなり…」と記され、天保8年(1837)、南都春日山から出土したものであることが知られる。

⑮鬼面鈴 青銅製 江戸時代(17~19世紀) 最大長23.4cm 鈴径9.5cm 1口

仏教用具の鐃(にょう)(全長20.0cmほどの銅製の柄付きの鈴。寺院での法会に用いられる)の鈴の部分が人面となっているもの。鐃は平安時代に密教が請来される前から用いられ、背景に神仏習合思想(日本固有の神への信仰と仏教信仰とが融合したもの)があることが指摘されている。武四郎は、本品が東国で制作された可能性を考えていたようである。同種のものは本居宣長記念館(松阪市)に収蔵されている。