※発熱等、風邪の症状がある方は、ご来館をお控えください。館内では、マスク着用・咳エチケットの励行にご協力ください。
※新型コロナウィルスの感染状況により、臨時休館とさせていただく場合がございます。当館のホームページ等で最新の情報をご確認下さい。
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三菱創業150周年となる本年、三菱の第2代社長の岩崎彌之助(1851~1908)、三菱の第4代社長の岩崎小彌太(1879~1945)蒐集の古典籍、東洋の古美術品を所蔵する静嘉堂では、今日に伝えられた絵画や茶道具、陶磁器、漆工芸、彫刻、刀剣などから名品を精選し、前・後期に分けて展観します。展示室のエントランスでは、岩﨑家が明治から昭和初期にかけて所有した深川別邸(ジョサイア・コンドル設計、跡地は現在の清澄庭園)や麻布鳥居坂の本邸(跡地は現在の国際文化会館)に飾られていた作品が皆様をお迎えいたします。
本展では、重要文化財13点、重要美術品8点を含む、各ジャンルを代表する作品から数点ずつを選び、それぞれが互いの魅力を引き立て合い“競演”する様子を、楽しくご鑑賞いただけるような構成としています。名宝のたたえる格式ある美、斬新な意匠、卓越した技をご堪能いただければ幸いです。
また静嘉堂では開館以来、岩﨑家の社会貢献の精神を受継ぎ、わが国で作り出され、あるいは舶載された貴重な文化財を継承してゆくために、美術品の修理事業を行ってまいりました。本展では修理を終えて美しく蘇った山水画の屏風や掛幅、仏画や墨跡なども出品いたします。
夏の緑深い季節、自然豊かな世田谷の杜の中の“美の競演”を、どうぞお楽しみ下さい。
岩崎家深川別邸(現在の江東区・都立清澄庭園が跡地)の建設は、明治11年、岩崎彌太郎(三菱初代社長・1835-1885)が、複数の大名屋敷跡、計3万坪を購入したことに始まります。弟の彌之助(1851-1908・静嘉堂の創設者)が造園事業などを引き継ぎ、明治22年に“日本近代建築の父”と呼ばれる英国の建築家・ジョサイア・コンドル(1852-1920)に設計を依頼して洋館を建設。
翌年は、温室・球戯室(ビリヤードルーム)、そして“陳列室”が併設されました。岩﨑家がその部屋を飾るために購入した東洋陶磁は、当時の御雇い外国人、フランシス・ブリンクリー(1841 ~ 1912)から一括購入したものでした。
静嘉堂のラウンジでは、そのコレクションの中から古伊万里・清朝陶磁の名品をご紹介します。
深い瑠璃色の地に、不透明白色の上絵具を用いて賦彩する技法に「粉彩」で、9つの実をつける桃樹を描く大瓶。桃は不老長寿の象徴、ピンク色の蝙蝠(こうもり・「福」と音通して幸福を表す)も描かれている。静嘉堂の清朝陶磁の中でも人気の高い作品。
菊花形の縁に花文様をあしらった丸文を3つ配したユニークなデザインの絵皿。染付を焼き上げたあと、赤絵や金彩で彩った、古伊万里金蘭手は、江戸時代の元禄年間を中心に優品が多く作られた。静嘉堂には、国内向けの古伊万里が多く集められている。
静嘉堂には、国宝の「曜変天目」を筆頭に、中国の宋・元時代に焼成された「天目」の名品が所蔵されている。本展会期中は、唐物茶碗として曜変に次いで評価が高い「油滴天目」(建窯)を全期間、【前期】には、それと侘び茶において評価が高まった「灰被天目」(茶洋窯)の名碗2点を。各茶碗に付属の「天目台」も引けを取らない見事な漆芸作品です。
【後期】には、唐物、和物それぞれの「瓢箪」と「肩衝」茶入が登場。並べて見ると、形や景色などの個性がよくわかります。
大振りで口が大きく朝顔のように開いた形姿の油滴天目(茶碗)。銀色から虹色に輝く斑文が茶碗内外にびっしりと浮かぶ本碗は、世界的に著名な作品。重さはなんと741g。この油滴に添う「堆朱花卉文天目台(ついしゅかきてんもくだい)」(明時代・15世紀)は、何十層にも塗り重ねた朱漆に花卉文を優美に彫りつめた、明初彫漆(ちょうしつ)の最高級品で、水戸徳川家の伝来品。両者は近代に入って大阪藤田家で組まれたと見られる。昭和4年(1929)に揃って岩崎家の所有となった。
大名・毛利家に伝えられた灰被天目と付属の「堆朱屈輪文天目台(ついしゅぐりもんてんもくだい)」(南宋)は、朱・黒・黄と幾重にも塗り重ねられた漆の層が、斜めに鋭く彫られた断面から鑑賞される。ぐり文とは、唐草状のくりくりした彫りの形状から日本で付けられた名称。
モノクロームによる山水表現の競演は、東アジアにおける水墨山水画とその文化的、思想的背景の伝播ともいえるでしょう。中国の宋元の画家による水墨山水図は、例えば、中国の名勝を描いた瀟湘八景(しょうしょうはっけい)にみる画題と画風の型や、文人高士の隠遁の様を描く、山水の中の楼閣や書斎などのモチーフとして、文人文化や禅の思想とともに、朝鮮半島を経由し、室町時代の日本にも伝播しました。三次元的な空間を水墨で表現することに、いかに地域性が現れているか、ということもあわせてお楽しみください。ここでは【前期】の山水画テーマから、中・韓・日の作品をご紹介いたします。
もともとは四幅の四季山水図として描かれたと推測されるが、二幅対で伝来した作品。楼閣で文人高士が語らったり、琴を奏でたりしている。天を突くような松樹、遠景の山々は印象的で、深遠な空間表現がなされる。孫君沢は室町期には日本で楼閣山水の名手として知られた。修理後初公開となる。
江南の瀟水と湘水の合流付近にある風光明媚な場所の、季節や時間を違えた「八景」を選び、これを詩に詠み描いた「瀟湘八景」のうち「遠帆帰帆」と「漁村夕照」。手前の四阿(しあ・あずまや)では文人が語らう。淡い墨色で前景、中景、後景とそれぞれを重ねるように描き空間を表現している。
前景の岩に松、茅屋をはさみ、後景に尖った岩山が描かれる。岩の後ろには、茅屋に座す高士を訪ねて船に乗る高士が描かれる。構図、水墨表現、訪友のテーマとも東アジア文化の広がりがみてとれる。
観音図、羅漢図(ともに【前期】)、春日曼荼羅(かすがまんだら)、文殊普賢菩薩像(もんじゅふげんぼさつぞう)、木造広目天眷属像【後期】)など、寺社を荘厳する東アジアの宗教美術の競演です。場を荘厳する巨幅、貴族の優雅な美意識を反映した細密美麗な仏画、水墨と着色の表現など、様々な祈りの造形をご紹介します。ここでは、【後期】の春日曼荼羅の3つの名品の競演を—
春日大社の十社の神々とその本地仏を画面中央に大きく配し、背景は群青を塗りこめ虚空とする。本地仏の着衣には截金を用い、神々も色彩も豊かに描かれる。春日の風景は、画面上部に山々、下部に春日大社の二の鳥居と五位橋を描くのみである。
春日大社への信仰から生まれた春日曼荼羅のうち、春日大社や御蓋山などの景観を大きく表したものを春日宮曼荼羅という。貴族が春日大社に参拝する代わり、邸内に懸けて礼拝した。花咲く桜が林立し、青い霞がたなびく春日野は、温雅な大和絵の画風で描かれる。画面上部には春日社の祭神と本地仏を描き、本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想を表す。
祭神・武甕槌命(たけみかずちのみこと)が白鹿に乗って常陸国鹿島から奈良・御蓋山(みかさやま)に影向(ようごう)したという信仰に基づき、神鹿を中心に描く形式を鹿曼荼羅と呼ぶ。群青の虚空に立つ神鹿の鞍から伸びる榊には金色の鏡面が表され、その中に十一面観音が細緻に描かれる。十一面観音は春日大社第四殿の本地仏にあたる。画面上部には春日山や御蓋山(みかさやま)が描かれている。
襖や屏風など大画面の障屏画(しょうびょうが)は、室内空間を荘厳する調度(ちょうど)です。特に六曲一双の大画面屏風は、部屋の雰囲気をがらりと変え、絵師たちの力が発揮される日本絵画の花形です。
室町時代、中国絵画(漢画・唐絵)を基礎にはじまった「狩野派」と、大和絵(やまとえ)を代表する「土佐派」は、日本絵画史を代表する二大画派です。また江戸時代、大和絵の系譜から“画派や子弟関係”ではなく“私淑”により、日本独自の装飾画ともいうべき「琳派」とよばれる一派が、京都の富裕な町人層や公家たちの美意識に支えられ、育まれて登場します。
室町時代の狩野派と土佐派の競演を【前期】に、江戸時代の狩野派と琳派の競演を【後期】にお楽しみください。
【前期】は、展示室中央の壁面ケースにて、室町時代の“漢画系”《狩野派》より●伝 狩野元信「 韃靼人打毬図旧襖絵(だったんじんだきゅうずきゅうふすまえ)」( 現装:屏風)」 室町時代( 16世紀)、 そして“やまと絵系”《土佐派》より 、近江の要所、堅田の景を描く ●「堅田図旧襖絵(かたたずきゅうふすまえ)」(もと大徳寺塔頭・瑞峯院檀那(ずいほういんだんな)の間の襖絵。現装:屏風)」 室町時代(16世紀)を出品します。
江戸幕府御用絵師・狩野探幽(1602-74)は幽美で瀟洒な画風を打ち出し、室町時代以来の狩野派の画風を一変させた実力者。画面いっぱいに迫力ある墨線で波を描き、繊細な描写と使い分け、奥行きある画面を描出する。鳥は写実的で右隻は海を左隻は湖の波である。
姫路藩主の弟として江戸の酒井家藩邸で生まれ育った酒井抱一(1761-1828) は、江戸琳派の祖とも言われる。俳諧や狂歌、能など諸芸をたしなんだ抱一は、尾形光琳(1658-1716) に私淑し、光琳の金地の「風神雷神図」の裏に銀地の「夏秋草図」を描き光琳にオマージュを捧げた。この屏風では銀地の大画面に、力強い筆を揮って墨のみで大波を描く。
花や鳥、魚や動物など生きとし生けるものをモチーフとした、東アジア美術の競演です。日本と中国、絵画と工芸、師弟あるいは交友関係のある絵師同士の美の競演をお楽しみください。
沈南蘋(1682年- ?)は、1731年に来日し、1年10 ヶ月を長崎で過ごした中国の絵師。写実性・吉祥性を兼ね備えた画風で、江戸時代の日本人を魅了した。本作は、黄蜀(ととろ)葵(あおい)や朝顔の咲く中、岩の影から天牛(カミキリムシ)を狙う猫の一瞬を描いたもの。猫は長寿の意味をもつ吉祥画題として好まれた。
対象を写実的に描く、中国渡来の“南蘋派(なんぴんは)”の画風は、江戸後期の文人絵師たちに多大な影響を与えた。原在明(1778-1844年)は、京都生の“原派”の絵師。画中に書される「賛」は、江戸の戯作者・太田南畝による。
★一作品に総勢72図の競演。江戸琳派の粋が結集した画帖。
江戸後期を代表する文化人であり、“江戸琳派の祖”とも謳われる、酒井抱一(1761-1829)。この「蓮池に蛙」、「富士図」など彼の描く72図が一冊の画帖に貼りこまれた「絵手鑑」。彼が私淑していた尾形光琳のみならず、狩野派・土佐派・円山四条派・漢画などの絵が連なる。伊藤若冲(じゃくちゅう)の版画帖の図様もとり入れる。俳諧に通じた抱一の幅広い画技、粋なデザイン力を示す珠玉の画帖として知られるもの。
★静嘉堂文庫所蔵の和・漢の“古典籍”の競演!【前期】—日本の刊本として古く貴重なもの、嵯峨本『通小町』&中国宋時代の版本、重要文化財 『三蘇先生文粋(さんそせんせいぶんすい)』を展示。後期は、浮世絵コレクションから、三代歌川豊国 (国貞(くにさだ)&歌川広重(ひろしげ)による「 大判錦絵」の競演(共演)!
「三蘇」とは、北宋の蘇洵(そじゅん)(1009-66)とその二子、蘇軾(そしょく)(1036-1101)と蘇轍(そてつ)(1039-1112)の三人をいい、いずれも名文章家として唐宋八大家に数えられる。本書はその三蘇の文章をあつめたもの。明治40年(1907)に岩﨑彌之助に一括で購入され静嘉堂に納められた、清末の四大蔵書家の一人・陸心源(りくしんげん)の皕宋楼(ひょくそうろう)旧蔵の書である。
役者絵と風景画で活躍していた二人の絵師、三代歌川豊国(とよくに)(国貞(くにさだ)・1786-1864)・歌川広重(ひろしげ)(1797-1858) がそれぞれ東海道五十三次の各宿場を人物と風景で分担し描いた、豪華なコラボからなる浮世絵版画。「双筆」というのはその二人の筆、という意味からで、東海道五十三次の旅を楽しく描いた人気の作品集。本図はそのうちの「赤坂」の図。
★刀剣コレクションからは、日本刀最上級の斬(き)れ味!「 最上大業物(さいじょうおおわざもの)」より備前刀・新刀2工の競演!ともに【全期間】展示。
古来斬れ味に定評があり、戦国武将たちにも愛された古備前の名工・元重と、新刀を代表する江戸の名工・虎徹(こてつ)。それぞれ相州伝に影響を受けた新旧2人の刀工の表現の違いを味わいたい。
※「最上大業物(さいじょうおおわざもの)」とは—江戸時代後期、山田浅右衛門吉睦らが行った刀剣の試し斬りの実例をもとに選定された斬れ味の位付けのひとつで、最も良く斬れるとされたもの。『懐宝剣尺(かいほうけんじゃく)』(1797年)に記載された最上大業物には13工の名がある。